2003年1月8日。この日を私は一生忘れないだろう。大阪での約4年の勤務も残り約3週間となった日だった。
グロービス代表の堀義人からメールが届いた。堀から個人メールが来ることは滅多にないため「なんだろう?」と思ってメールを開いた。すると「GMSの拠点展開を担当しませんか?」というメールだった。
GMSは1992年に渋谷の貸し教室からスタートし、翌年には大阪校を出している。その後、東京校、大阪校をベースにカリキュラムやサービスの拡充を行い、通信教育なども導入してきたが、次の拠点を増やすというチャレンジは行ってこなかった。
ただ、グロービスの「日本およびアジアにおいて、ヒト・カネ・チエのインフラを提供し、ビジネスの創造と変革を促す」というビジョンに立ち返ると東京と大阪という拠点のみでは足りないのではないか、という議論は過去からあった。次に出すとすればやはり日本の第3の都市である「名古屋」であろう。それに、名古屋から東京や大阪に通う受講生も年間100人規模になったことを考えても、名古屋の地でグロービスが求められているのは確実だ。
私は大阪に4年前に入社し、最初はGMSへの法人派遣を獲得する仕事を担当していた。当時はまだまだ大阪においてGMSの認知度も低かったため、 40件/月というノルマで企業の人事部の門を叩いていた。その後、順調にビジネスも拡大し、企業内研修の企画・運営の仕事が中心となっていった。
大阪のビジネスは私が入社した4年前のほぼ3倍まで大きくなり、微力ながらその一助になれたと思っていた。幸い、ここ数ヶ月で新しいメンバーが入社し、自分の仕事も引き継げる状態になり、達成感を持ちつつ、東京で次なる飛躍を目指そうと考えていたときだった。
堀のメールに対してはすぐに答えることができず「考えさせてほしい」という趣旨のメールを送信した。
その瞬間から正直に言って、まったく仕事が手につかなくなってしまった。大阪オフィスの教室の中で一人物思いにふけっていた。「自分が本当にできるのか?そして、それが本当にやりたいことなのか?」ということを考え続けた。
家に帰っても眠れずに夜遅くまで考え悩んだ。結局結論が出ない。そして、朝を迎えてしまった。
自分だけでは追い詰められるだけだったので、信頼している同僚に相談してしまった。もちろん結論は自分で出す、という前提で。彼女に話すと気持ちがずいぶん楽になった。そして、彼女と話していながら、自分がこの仕事に取り組んでみたい、挑戦してみたいのだ、という自分の思いを確認していくことができた。
最後に背中を押してもらったのは、岡本太郎である。彼の本の一説を読み決意を固めた。岡本太郎はこう言う。
「結果がうまくいこうがいくまいがかまわない。むしろ、まずくいった方が面白いんだと考えて、自分の運命を賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか。体当たりする前から、きっとうまくいかないんじゃないかなんて、自分で決めてあきらめてしまう。愚かなことだ。本当に生きるということは、自分で自分をがけから突き落とし、自分自身と闘って、運命を切り開いていくことなんだ。」
私は人生の多くの場面で、様々な本からインスピレーションをもらっている。
今回も岡本太郎という日本芸術界の偉人に最後の後押しをしてもらったのだ。
振り返れば自分の人生の中で一度だけ、挑戦せずにあきらめたことがある。
それは、高校時代のサッカーでのことである。私は東京都選抜候補となり、40名まで絞り込まれたメンバーに名を連ねることができた。周りは帝京、修徳、暁星等、東京都では名門と言われる高校から集まっている。一方で僕はというとただ一人無名の高校から。
練習では慣れない練習やポジションで思い通りにいかなかった。そして、自信をなくしてしまう。最終選考はジャカルタ選抜との試合で東京都代表を決めることとなっていた。しかし、私は行かなかった。その場でミスをするのを恐れたのだ。失敗するのを逃れたのだ。
いつ振り返っても苦い思い出だ。そのとき挑戦しなかった自分を僕は好きにはなれない。逃げてしまった自分を。それ以来、逃げそうになる自分がいるとこの出来事を思い返す。あの時の苦い気持ちをまた感じたいのかと自分を問いただす。
今回もこの出来事が頭にかすめた。そして、今回は“勇気を持って挑戦する”という決意を固めた。
オフィスに戻ると、早速堀に対して「やらせてください」とメールを打った。